ある時は「我慢をしなさい」と諭し、ある時は「我慢するなよ」と教える。いったい我慢≠チて何だ!?
辞書を引いてみると「耐え忍ぶこと」、「こらえること」、「辛抱」とある。
「賃貸生活から脱出し、我が家を持てるまでは、少ない小遣いでも我慢しよう」という思いは分かるし、「トイレだけは我慢できない」と生身の健康に直接影響することは、辛抱や忍耐を誰も強要しない事も理解できる。
その一方で「我意を張る」、「強情」といった全く正反対の意味もあるなど、我慢は奥行きと幅の広い言葉なのだ。
ところで、仏教語でいう我慢とは「おごりたかぶること、自分を偉いと思い他人をバカにすること」とある。慢心である。人間の煩悩の根元をまとめていうと「三毒」という貪瞋痴(どんじんち)であり、更に詳しく「貪瞋痴慢疑悪見(どんじんちまんぎあっけん)」ともあった。
私はどちらかと言えば、我慢という語は、「我慢する」という肯定的な使い方のほうが、「我慢しない」という否定的な使い方よりも、価値があるように感じている。
「タバコを我慢しているとストレスが溜まるから我慢しない」とか「相手の思う壺にはまるから我慢しないで言いなさい」等々。『我慢』の否定は自己弁護で使うような傾向が強いからである。
『播磨國風土記』の神前郡の条にある神様の野糞の話がある。
重い荷物を担いで道中するのと、便意を我慢して道中するのと、どちらが辛いか、身をもって実践した神様がいた。「私はウンコをしないで行こう」と大汝命(オオナムチノミコト)。「私は粘土の荷を持って行こう」と小比古尼命(スクナヒコネノミコト)。双方、数日間は辛抱したが、ついに大汝命は「もう駄目!漏れそう」と、その場にしゃがんでウンコをしてしまった。ちょうど、小比古尼命も「私も苦しい」と、荷物を投げ出して、この勝負引き分けだったそうである。
大汝命が脱糞した時に、その糞が小竹にはじかれて衣が汚れた。故に、その地を波自賀(はじか)村と名づけたそうである。
私は、アメニティのトイレの仕事を嬉々としてやっている我が長男に「辛抱強く」の願いを込めて、ビジネスネームに「波自賀村跳男(はじかむらはねお)」と名付けた。が、今日もお客様と電話で喧嘩をしたとの報告があった。
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